INICIAR SESIÓN「……奥様?」
振り返ると、昨日、食事を運んできた若い娘が立っていた。
「どちらへ行かれるんですか?」
「少し、街へ……」
「えっ、お一人で?」
「ええ。どうしても買いたいものがあるの」
娘は困ったように眉を寄せた。
「でも、閣下に知られたら……」
「お願い。誰にも言わないでちょうだい」
「そんな……。あたしが黙ってたってわかったら、叱られちゃいます」
娘は不安そうに本邸の方を振り返った。
エレノアは唇を噛んだ。
せっかく外へ出られると思ったのに、ここで引き返すしかないのだろうか。
そのとき、ふと財布のことを思い出した。
「……そうだわ。お礼をさせてちょうだい」
エレノアは財布から銀貨を一枚取り出した。
「こ
「……奥様?」 振り返ると、昨日、食事を運んできた若い娘が立っていた。「どちらへ行かれるんですか?」「少し、街へ……」「えっ、お一人で?」「ええ。どうしても買いたいものがあるの」 娘は困ったように眉を寄せた。「でも、閣下に知られたら……」「お願い。誰にも言わないでちょうだい」「そんな……。あたしが黙ってたってわかったら、叱られちゃいます」 娘は不安そうに本邸の方を振り返った。 エレノアは唇を噛んだ。 せっかく外へ出られると思ったのに、ここで引き返すしかないのだろうか。 そのとき、ふと財布のことを思い出した。「……そうだわ。お礼をさせてちょうだい」 エレノアは財布から銀貨を一枚取り出した。「これを受け取って」「えっ! そんな、いただけません!」 娘は慌てて首を振った。 エレノアにとっては、さほど大きな金額ではなかった。けれど、娘は銀貨を見つめたまま、戸惑っている。「いいのよ。受け取って」「でも、奥様……」「お願い。今、街へ行けなくなったら、本当に困るの」 エレノアは銀貨を差し出した。「だから、どうか黙っていてちょうだい」 娘はしばらく迷っていたが、やがておずおずと銀貨を受け取った。「……あたし、何も見てませんから」「ありがとう。本当にありがとう」 エレノアはほっと胸を撫で下ろした。「あなた、お名前は?」「アンナです」「アンナね。覚えておくわ」 アンナは銀貨をエプロンのポケットにしまうと、何度も後ろを振り返りながら本邸へ戻っていった。 エレノアも通用門を
「……結局、返していただけなかったわ」 エレノアは、父からの手紙を手にすることもできず、離れへ戻ってきた。 ヴィンセントは、誓約書に署名するまで渡さないと言い張った。 あの手紙には、何が書かれているのだろう。 父はもう、自分の窮状を知っているのだろうか。 考えても答えは出なかった。 離れの扉を開けると、昨日と変わらないかび臭さが漂ってきた。 寝室には、ようやくシーツが届けられていた。けれど、寝台の天蓋には相変わらず蜘蛛の巣が張っている。 エレノアは深いため息をついた。 昨日から同じドレスを着ている。 夜も着替えられず、椅子に座ったまま眠ったせいで、裾には皺が寄り、袖口も汚れていた。 荷物の中には替えのドレスが何着もある。 けれど、どれも背中を編み上げなければ着られない。 侍女がいなければ、今着ているものを脱ぐことさえ難しかった。「……どうしましょう」 エレノアは鏡の前に立った。 髪も乱れている。いつもなら侍女がきれいに結い上げてくれるのに、今日は自分で梳かすことしかできなかった。 このまま何日も過ごすわけにはいかない。 せめて、一人で着替えられる服があれば。 そう考えたところで、エレノアはふと顔を上げた。 服なら、仕立ててもらえばいいのではないだろうか。 伯爵家にいた頃は、仕立屋が屋敷まで来てくれた。けれど、ここへ職人を呼ぶことは許されないだろう。 それなら、自分から出向けばいい。 問題は、どうやって屋敷の外へ出るかだった。 エレノアは窓から庭園を眺めた。 離れの周囲には、見張りの姿がない。 食事を運ぶ使用人が日に数度やってくるだけで、それ以外は誰も近づかなかった。 ヴィンセントは本邸への立ち入りを禁じたけれど、離れの扉に鍵をかけているわけではない。 エレノアは外へ
「その格好で来たのか?」 翌朝、ヴィンセントはエレノアを見るなり顔をしかめた。 エレノアは思わず自分のドレスに目を落とした。 昨日から着替えていない。離れには侍女もおらず、持ち込んだ荷物もまだ開けられないままだった。「着替えを手伝ってくれる者がおりませんでしたので」「言い訳はいい。公爵夫人なら、もう少し身なりに気を遣え」 エレノアは唇を噛んだ。 昨夜、執事が届けてくれたのは燭台と毛布だけだった。 寝台には埃が積もっていて、とても横になれなかった。結局、椅子に毛布をかけ、ほとんど眠れないまま朝を迎えたのだ。「それで、今後の待遇についてお話があるとか」 エレノアが尋ねると、ヴィンセントは椅子に深く腰掛けた。「ああ。いつまでもあんな場所で暮らしたくはないだろう?」「当然です」「なら、話は簡単だ」 ヴィンセントは机の上に一枚の紙を置いた。「これに署名しろ」 エレノアは差し出された紙に目を通した。 そこには、今後は夫の意向に従い、公爵夫人としての務めを果たすことを誓う、と書かれていた。「……これは」「お前が約束を守るなら、元の部屋に戻してやる。侍女もつけよう」「夫の意向に従う、というのは?」「わかっているだろう。もう寝室で騒ぎを起こすなということだ」 エレノアは紙を机に戻した。「署名できません」 ヴィンセントの眉が跳ね上がった。「まだ強情を張るつもりか?」「私の意思を無視して寝室に押し入ることを、やめていただきたいだけです」「お前は俺の妻だぞ!」 ヴィンセントが机を叩いた。「跡継ぎを産むのが、お前の役目だろう!」「そのために、あの離れに閉じ込めたのですか?」「お前が素直に言うことを聞けば済む話だ」 エレノアは目の前の紙を見つめた。
日が暮れ始めても、誰も来なかった。 エレノアは離れの窓から、何度も本邸へ続く小道を眺めた。 執事は寝具を届けると言っていた。食事も運ばれてくるはずだった。 けれど、夕暮れの庭園には人影ひとつない。 窓辺に立ち続けているうちに、足が痛くなってきた。 椅子には埃が積もっている。仕方なくハンカチを敷いて腰を下ろしたものの、座面から舞い上がった埃に咳き込んでしまった。「……どうしましょう」 もう一度、寝室を見回す。 日が落ちれば、明かりも必要になる。けれど、燭台はあっても蝋燭が見当たらなかった。 このまま夜になったら、真っ暗な部屋で過ごすことになる。 そのとき、ようやく扉の開く音がした。「奥様、お食事をお持ちしました」 若い下働きの娘が、盆を抱えて立っていた。「ああ、よかった。あなた、少し待ってちょうだい」 エレノアは思わず駆け寄った。「寝具はまだ届いていないの。それに、この部屋のお掃除も……」「申し訳ございません。私はお食事を運ぶようにとしか」「では、ほかの方を呼んでいただける?」 娘は困ったように視線を落とした。「離れには、ほかの者を寄越さないようにと言われております」「……誰に?」「執事長でございます」 エレノアは言葉を失った。 娘は小さな卓の上に盆を置くと、慌ただしく頭を下げた。「それでは、失礼いたします」「待って!」 呼び止めると、娘はびくりと肩を震わせた。 エレノアはその様子に気づき、声を和らげた。「せめて、明かりを持ってきてもらえないかしら。夜になったら何も見えなくなってしまうわ」「……聞いてまいります」 娘はそう答え、逃げるように離れを出ていった。 卓に残されたのは、冷めかけたスープと硬いパンだった。 水の入った杯もひとつだけ。 エレノアは盆を見つめた。 食事を運んでくれた娘が悪いわけではない。 けれど、なぜこんなことになってしまったのだろう。 やがて窓の外が暗くなり、部屋の隅から闇が広がり始めた。 娘は戻ってこなかった。 エレノアは扉の近くに立ち、廊下へ目を凝らした。 暗闇の中で、どこかの木材がきしむ音がした。「……誰か?」 返事はない。 もう一度呼びかけようとしたとき、外から足音が聞こえた。 ようやく明かりを持ってきてくれたのだろうか。 エレノアは扉に駆け寄った。
「……ここで暮らせとおっしゃるの?」 エレノアは、目の前の建物を見上げた。 公爵邸の庭園の奥に建つ、古い離れだった。 外壁には蔦が絡まり、窓枠の塗装は剥がれている。屋根の一部には苔まで生えていた。「公爵閣下のご命令でございます」 執事は淡々と答えた。「奥様には、しばらくこちらで静養していただくようにと」「静養……?」 エレノアは思わず聞き返した。 どう見ても、人が療養するような建物ではない。 扉を開けると、かび臭い空気が流れ出してきた。 廊下には埃が積もり、壁際には蜘蛛の巣が張っている。窓は汚れで曇り、昼間だというのに薄暗かった。 寝室に案内されると、エレノアはとうとう言葉を失った。 寝台にはシーツもなく、天蓋には大きな蜘蛛の巣が張っていた。 古びた布をかぶせられた家具は、触れただけで埃が舞い上がりそうだった。「……お掃除は?」「急なご命令でしたので、準備が間に合いませんでした」「では、侍女を呼んでいただける?」「本邸の使用人は、こちらへ常駐いたしません」「……え?」 エレノアは執事を見つめた。「では、誰がこの部屋を片づけるの?」「必要なことがございましたら、お申しつけください」「誰に?」「お食事をお運びする者に、お伝えいただければ」 エレノアは言葉を失った。 水差しも、洗面道具もない。 暖炉には古い灰が残り、薪も用意されていなかった。「……今夜は、どうやって眠ればいいのかしら」「寝具は後ほどお届けいたします」 執事はそれだけ告げると、一礼して部屋を出ていった。 扉が閉まり、足音が遠ざかっていく。 エレノアは、ひとり取り残された。 部屋を見回しても、座れる場所さえ見当たらない。 寝台は埃だらけで、椅子には蜘蛛の巣が張っている。 これまで、部屋が汚れていたことなど一度もなかった。 朝起きれば、侍女が洗面の支度を整えてくれた。夜には湯が用意され、寝台には清潔なシーツが敷かれていた。 そのどれもが、今はない。 エレノアは寝室から廊下へ出てみた。 けれど、どの部屋も同じように荒れ果てている。 呼び鈴を探しても見つからず、誰かの名前を呼んでみても返事はなかった。 どうしたらいいのだろう。 誰に頼めば、この部屋を使えるようにしてもらえるのだろう。 エレノアは途方に暮れた。 こんな場所で一晩
鍵が外れた。 エレノアは扉から後ずさった。 昨夜はテオドールが助けてくれた。けれど、今夜は誰もいない。「エレノア、椅子をどけろ」 扉の向こうから、ヴィンセントの声がした。「お断りいたします!」「いつまでそんな真似を続けるつもりだ!」 扉が強く押され、前に置いた椅子が床をこすった。 エレノアは慌てて寝台の反対側へ回った。 もう、逃げ道はない。 やがて椅子が押しのけられ、扉が開いた。「……ずいぶん手間をかけさせてくれたな」 ヴィンセントが入ってきた。 背後には、鍵を開けた使用人が控えている。「下がれ」 ヴィンセントが命じると、使用人は頭を下げて立ち去った。 扉が閉まる。「さて、エレノア」 夫はゆっくりと近づいてきた。「今夜こそ、妻としての務めを果たしてもらう」「嫌です」「まだ言うか!」 ヴィンセントが腕を伸ばした。 エレノアは身をかわし、化粧台のそばに逃れた。「近づかないで!」「私を何だと思っている!」「私の言葉を聞いてくださらない方だと思っています!」 ヴィンセントの顔が怒りに染まった。「お前は本当に、どうかしてしまったようだな!」 そのとき、エレノアの指先が化粧台の上の小瓶に触れた。 香水瓶だった。 エレノアはそれをつかみ、床に投げつけた。 甲高い音とともに、瓶が砕け散る。「何をする!」「それ以上近づかないでください!」 エレノアは震える声で叫んだ。「これ以上無理強いなさるなら、窓を開けて助けを呼びます!」「……何?」「使用人にも、庭にいる者にも聞こえるように叫びます。公爵様が妻に何をなさろうとしているのか、皆に知っていただきます!」 ヴィンセントの動きが止まった。 彼が恐れているのは、妻が傷つくことではない。 自分の評判が傷つくことなのだ。「……私に恥をかかせるつもりか」「あなたが何もなさらなければ、叫ぶ必要はございません」 ヴィンセントはしばらくエレノアをにらみつけていた。 やがて、忌々しげに舌打ちした。「勝手にしろ!」 乱暴に扉を開け、部屋を出ていく。 エレノアは、その場に崩れ落ちた。 怖かった。 けれど、今夜も守り抜いた。 あと一年。 この調子で、本当に乗り切れるのだろうか。 ◇ 翌朝、エレノアのもとに執事が訪れた。「奥様。公爵閣下より、お伝